うららかな陽気の下、萩の歴史ある街並みを堪能してきました!
夜の間激しく降った雨は、幸いにして翌朝には降りやんでくれました。とはいえ空模様はどんねりしているため、朝はゆっくり支度して少し様子を見ることに。
(前日にもらった地図をながめ、今日1日の行程を思案中。ちなみに萩市内の文化財は有料のものも多いですが、そのうち100円で入ることのできる9つの施設については共通の1日券が販売されています。1日券のお値段は310円、4か所以上めぐるつもりなら、こちらを購入した方がお得と思います)
hagishi.com(1日券が使える施設の詳細は、こちらで確認することができます)
天気は相変わらずの曇り模様だけれども、どうやら雨は降りそうにないので9時過ぎに芳和荘を出発。まず最初の見学先、萩北部の指月城(萩城)へチャリチャリと移動します。
(萩城は、江戸時代のほとんどの期間を通じて長州藩の藩庁が設置された城。現在は公園として整備されて観光名所となっています)
(現在天守閣は破却されてしまってますが、明治初期に小野為八という人が撮影した写真が残されています。まったく同じアングルとはいきませんでしたが、まずは同じようなアングルから在りし日を偲び、テンションを高めたところで城内へ。なお公園内に入るには210円必要で、こちらは上述の1日券の対象外となっているので注意が必要です)
(毛利元就や歴代の長州藩藩主を祀った志都岐山神社をはじめとして、公園内には毛利氏ゆかりの色々な施設が残されていました)
(ちなみに志都岐山神社付近には、日本でここでしか見られないミドリヨシノが植えられています。私が訪れた時はまだ花が1つ2つ咲いた程度でしたが、緑色のガクが目立つため、名前の通りソメイヨシノよりも緑の印象が強い姿になるのだとか)
(何気ない土壁も、年月の積み重ねでえも言われぬ味わい深さを醸し出しています)
こうして歴史を感じつつ公園内を一周した後は、ここから南に進んで萩市内各地を巡ることに。
(まず萩城の目の前には、かつて毛利家一門として重きをなした厚狭毛利家の武家屋敷の長屋が残されています。長さ50m超と、萩市内に現存する武家屋敷の遺構としては最大の規模を誇る建物です)
(萩城付近の元三の丸一帯は、かつては重臣クラスの屋敷が密集していたエリアです。現在でもこの地域は、結構当時の塀が残されています。地元の方曰く、明治になってから士族授産の一環で、萩では夏ミカンの栽培に力を入れたそうです。夏ミカンは風に弱いため、防風林代わりに武家屋敷の塀はそのまま残されることとなり、それが結果的に街並みの保全につながったそうです)
(ちなみにこの塀は、防御上の観点から視線を遮るように高めに作られているようです。ほかにも「鍵曲(かいまがり)」といって、S字クランクのように道を曲げることで見通しを悪くする工夫も見られました)
(橋本川沿いには、昭和期に総理大臣を務めた田中義一の別邸もあります。建物内には田中義一の陸軍大将服など、田中義一ゆかりの品々が展示されています。私が訪れた時はほかに訪問者もいなかったため、ボランティアガイドの方に色々と萩のことを聞くことができて良かったです!)
(もともとこの敷地は毛利一門の毛利筑前下屋敷があったそうで、夏ミカンのほかに見事な松の木が生えています。松の木は合計5本あり、そのことから田中義一別邸は「五松亭」と呼ばれたのだとか)
(田中別邸を見学した後も、川沿いを南に向かって進みます。このころから天気は回復し、おだやかな春の陽気を楽しむことができました!!)
(道すがら、元老の1人として政界に重きをなした山県有朋の誕生地を発見。この辺りまでくると萩城からは大分離れており、もともとは下級藩士が居住したエリアだったそうです。批判されることも多い人物ですが、山県はずいぶんと出世したものだなぁと思いますね)
(そして正午過ぎ、橋本川と松本川の分岐点となる太鼓湾に到着しました。萩の市街地は、この太鼓湾から始まる三角州に形成されています)
(遠くに山陰本線の鉄橋が見えますが、山陰本線は三角州を迂回して敷設されました。これも結果的に萩の古い町並みが残る要因となり、その残りっぷりは江戸時代の地図を使って探索できるほどだそうですよ)
こうして萩の最南端に到着した後は、再び北上して中心部まで戻ることに。ここからも見どころだらけの充実した1日となりましたが、その様子はまた次回紹介していきたいと思います!