前回に引き続き、先日の遠出についてまとめたいと思います~
samayoicyarinko.hatenablog.com(前回の記事はこちらです~)
さて高鳥天満宮でお参りを済ませ、ついでに御朱印を頂いた後は一路東に向かってチャリチャリと。
実は今年の夏に足尾を訪れて以来、一度行ってみたいと思っていた場所がありました。それはどこかというと、渡良瀬川と利根川が合流する地域に作られた渡良瀬遊水地です。
(お昼前には、遊水地内にある谷中湖前に到着しました)
(谷中湖では釣りができるほか、ボートなど非動力船を漕ぐこともできるようです)
(また池の周囲を見回すと、一面の葦原が広がっていました)
この渡良瀬遊水地 (歴史的には渡良瀬遊水池と呼ぶべきかもですが) は、明治43(1910)年から大正11(1922)年にかけて作られた、洪水の被害軽減を目的とした地域です。
普段から水が溜まっているのは谷中湖だけですが、なんでも増水時には下流域での洪水を防ぐため、周囲の葦原にも放水することになっているそうです。
このようにこの地域では歴史的にしばしば洪水が発生していますが、明治以後は上流域の足尾銅山で発生した鉱毒が、洪水による下流域の各地に被害をもたらすこととなってしまいます。そして現在遊水地がある地域には、かつて谷中村という村が存在しました。谷中村はたびたび鉱毒による被害を受けており、いつしか鉱毒反対運動の中心地となっていきました。
その後谷中村は、遊水地を設置するため廃村となることが決定されます。これは当時より反対運動の拠点をなくすための措置と見なされており、そのため強い反発が生じたと言われています。
このようにこの地域は、足尾銅山の鉱毒と非常に強く結びついている地域です。なので夏に足尾を訪れて以来、足尾を訪れたからには遊水地も訪れるつもりでした。
samayoicyarinko.hatenablog.com(ちなみにこれは足尾を訪れた際の記事ですが、足尾は足尾で1973年に銅山が閉鎖され、街の様子は随分と様変わりしています。これはこれで、色々と胸にくるものがありましたね)
さて遊水地を一回りしていくと、その北東部の一角には谷中村の遺構が点在するエリアが残されています(※当初谷中湖が作られた時は、この一帯も湖とされることになっていました。しかし反対運動の結果谷中村の中心部は水没を免れ、一方で谷中湖はハート型のいびつな形になっています)。
(実際には遺構といっても痕跡はほとんど残っておらず、標柱がかつての痕跡を示すばかりとなっています。写真はかつての村役場跡です)
(かつての村の中心部であった雷電神社も、基礎と思しき土台石が残されているだけです)
(一方でこの遊水地の葦原は、今となっては人間の手があまり入っていない貴重な湿地となっています。そのため渡良瀬遊水地は、2012年にラムサール条約湿地に登録されることにもなりました)
日本の公害事件の元祖ともいわれる鉱毒事件の争点となった地域が、現在では自然保護区になっているのも何とも不思議な感じがします。とまぁこのような具合で、渡良瀬遊水地を巡っていると色々と考えさせられることとなりました。
こうして今回の遠出は終了となりましたが、これから12月の上旬までの期間が、今年最後の山場となりそうです。10月は体調を崩しがちとなってしまったので、今回は休みもしっかり取りつつお仕事に邁進したいと思います~